Entries by Barcelona Tatsujin

おもしろ噺 再びニューヨーク

1981年1月にニュヨークを出てメキシコ、ホンジュラス、ガテマラ、エル・サルバドール、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、コロンビア、ボリビア、エクアドル、ペルー、チリ、ウルグアイ、ブラジルと回り1981年8月に再びニューヨークに戻ってきました。 中南米旅行でニューヨークから持参した6.000ドルは全て使い果たしました。当時のアメリカは片道チケットでは入国出来ないと言う暗黙の了解(規則)が御座いました。ブラジルで買ったのは片道チケットだけ、そして持っていたのは1.000ドルのダブルチェックと現金200ドル。 ■ダブルチェックとは--!見せるだけのトラベーラズチェック、使えないチェックです。手持ちに1.000ドルあるときに、盗られた無くしたと警察に盗難届をだして、その盗難証明書を例えばアメリカンエクスに持って行き、新たに1.000ドルのチェックを発行してもらいます。そうすれば手持ちが2.000ドルになります。使えるのは1.000ドルだけで残りの1.000ドルをダブルチェックと呼ばれました。一か八か1.000ドルのダブルチェックとニューヨーク行き片道チケットで入国トライをしました。もしダメな場合は偽チェックでエアーチケットを買って日本に帰国する覚悟でした。入国検査でキッチリ旅行日程の説明をしました。ニューヨークでは一泊50ドルのホテルに5泊して、グレーハンドバスでロサンジェルスに行き、ロサンジェルスで数泊して、ロスからハワイ経由で日本へ帰ります。よって私は帰りのチケットを持っておらず、また手持ちの1.200ドルで十分と思われます。しばらく係官は考え込んでいましたが入国の許可をくれました。2度目のニューヨークは古巣に戻ったような気持ちで不安感は全然ありませんでした。それに中南米旅行中に知り合った日本人から泊まるところと仕事の目星は付いていました。宿は日本人たまり場<AND IN>、そして仕事は知り合いの<湘南ボーイがチーフウエイター>をしていたいろはレストランとトントン拍子に決まりました。決まったら働くだけです。相変わらず給料はゼロ、チップだけのテーブル乞食です。長い時はAM10:00~24:00まで14時間働らいたり、週に7日間働いたり、そして稼いだお金は銀行に貯金が出来ました。 ■この当時のアメリカ合衆国はツーリストでも銀行口座が持て、尚且つ利子が18%くらい付いた記憶が御座います。日銭は貯まらないと言う古い言葉もあるように、チップは仕事が終わると飲んで食べて消える毎日でした。実際精神的な疲れと肉体的な疲れで酒でも飲まなければその日が終われませんでした。そんな時ニューヨークのダウンタウン(ウオール街・証券街)の日本レストラン情報を聞きました。何でもダウンタウンのレストランは土、日曜日休み、労働時間もAM10:00~PM20:30。少し時間を作ってニューヨーク生活を楽しみたい気持ちもが芽生えたそんな折、ダウンタウンの歌舞伎レストランでウエイターを募集している口コミがありました。 ■早速面接の日取りが決まり、始めて世界の証券街<ウオール街>へ足を踏み入れました。社長は<中野 さなえ>さん。中野さんは戦争花嫁で南部の貧しい家に嫁がれたようです。そして別れて単身ニューヨークに来られ<歌舞伎レストラン>を立ち上げられました。採用は直ぐに決まり息子のように面倒をみて頂きました。まず最初はグリーンカード(永住権)を取りなさいと言う提案が御座いました。何時までも不法滞在で居る訳にもいかないので、この提案を直ぐに受け入れて、しばらく腰を据えてニューヨークに住むことを決心致しました。私のスポンサーは歌舞伎レストラン、中野さんからゲードリックと言うユダヤ人の弁護士を紹介して頂きました。ゲードリックは良く分からない大雑把な説明しかしてくれません。まずアメリカの永住権を取るには6つの申請パターンがあること、アメリカで生まれた人、親戚がいる、貢献した人、etcとあり、最後の第6セクションにアメリカが必要とする特殊技能保持者とあります。そこには日本料理板前、美容師、理容師、針、指圧などなど、彼はそこから選べと言います。それらに該当する技能を持っていないと言うと、遠回しに何か作れ!。スポンサーがレストランなので板前しかありません。私の最終学歴は写真専門学院卒です。 どうするか試行錯誤をしていると長野県伊那市の料亭<えび屋>の友達を思い出し、連絡をすると証明書を心良く承諾してくれました。送られてきたのは日本語で便せんに4行の簡単なものでした。宮本 均は何年から~何年まで間違いなくえび屋で修業をしました?!。全てうそです。それをニューヨーク日本大使館に持って行き英語に翻訳してもらい申請致しました。その時ゲードリックから運が悪いと追跡調査を受けるかも知れない、よってお互いに事実をしっかり覚えておくようにと念を押されました。幸い追跡調査はなく、1年2ヶ月後には移民局からインタビューの通知が届きました。この頃はインタビューがアメリカか日本か選べました。日本を出て5年が経つので日本を選びました。東京のアメリカ大使館で合衆国に忠誠を誓うセレモニーを行い全てが終了致しました。それから2ヶ月後にグリーンカードが郵便で送られてきました。 この後8年間ニューヨークでRICH&FAMOUSを目指して働きましたが、夢が見えず、1998年1月にニューヨークからバルセロナにやって来ます。

25/OCT/2015 No014 乾選手CAMP NOUデビュー

  25/OCT CAMP NOUにてバルサVSエイバールの試合が御座いました。現在スペイン一部リーグで活躍するただ一人の日本人が乾選手です。Tatsujinは乾選手のスタメンを予想して球場に赴きました。予想通り乾選手はスタメンで出てきました。さすがに他の選手よりも頭一つ背が低かったです。下記にウオーミングアップ中の乾選手の写真をお届け致します。内容的には前半はアシストと得点に絡む良い動きがありました。特にセンタリングにタイミングを合わせたヘデイングゴールは僅かに外れただけでした。しかし後半はゲームに参加されていませんでした。生で見ていた印象はポジシヨンが良くなかったと思います。終始バルサのダニー・アルベスと隣り合わせにおられました。この辺りを見ていた監督から後半交代の指示が御座いました。まだ乾選手と他プレーヤーの信頼関係が無いと感じました。ここには言葉とフィーリングの問題もあると思われます。!!頑張れINUI選手!! エスパニヨールで半年プレイした中村 俊介選手もロッカールームの派閥に入れず、スペイン語が出来ず、他の選手との信頼関係が生まれづ、6ヶ月で日本に帰ってしまいました。バルセロナの最後の新聞の見出しは<NAKAMURA SHUNSUKE>やる気のない顔でした。 その他に前から3列目で観戦した生の印象を書いてみます。 100回のテレビ観戦よりも、やはり1回の生観戦は迫力とインパクトがありました。始めて見るネイマールの驚異的な加速、ダッシュは早いと思いませんが3歩目、4歩目からの加速はカモシカを思わせる跳躍力があり止めるのは至難の業と思われます。そしてボール扱いの柔らかい事、触る印象がなく足の風力で操る感じ、この時何故か古い柔道家<三船 久蔵の空気投げ>を思い起こしました。この能力が移籍金100億円の価値でしよう?? 次は目の前で見るルイス・スワレス。走る姿は猛牛、近くに来た時にはドスン~ドスン~と言う足音が聞こえ地響きが体に伝わってきそうでした。あの体なら超人的な空中ボレーが生まれることを納得致しました。 残念ながらメッシはケガで出場しませんでした。    

07/OCT/2015 No013  ミッシェランの3星レストラン

ミッシェランの3星レストラン<SAN PAU> バルセロナから北に50km行ったところにSAN POL DE MARと言う町が御座います。ここにレストランSAN PAUがあり、創業者はSAN POL DE MAR生まれのカルマとトニ-です。下記の写真がカルマとトニー、SAN POL DE MARの町です。   海岸から見たSAN PAUレストランの写真、手前がガーデン、一階が厨房、二階が客席。               お勧め料理の写真            SAN PAUレストランの外観写真

01/OCT/2015  No012   PGAゴルフコース

PGA CATALUNYA RESORT バルセロナから北へ80km離れたところにPGA GOLF COURSEが御座います。その名の通りPGAのレイアウトを持つコースです。下記スコアカードをご覧ください。スタートテイは黒、白、黄色、茶色、青、赤と6つもあります。一般的には5.719mの黄色テイからのスタートが良いと思われます。写真のスコアカードは難易度の高いSTADIUM COURSEになります。   PGA GOLF COURSEはSTADIコース18ホールとTOURコース18ホールの合計36ホールからなります。お勧めはSTADIUMコースでしようか。コースは四方が山の囲まれ、フエアワエイの両サイドが少し盛り上がったすり鉢状になっておりプレーが楽しめます。次の写真は10、12番ホールの写真です。       場所は温泉の出るCaldes de Malavellaリゾートの近くに御座います。Caldes de Malavellaの温泉から作られる炭酸水がヨーロッパでも5回のメダルを受賞した<VICHI>です。   PGAの次にお勧め出来るのはバルセロナから60km離れた<GOLF CLUB MONTANYA>でしようか。    

18/SEP/2015 No011 無料入場/割引券

グエル公園無料入場 グエル公園は市民公園で無料でした。それをバルセロナ市が2年前から8.00€の入場料を取り始めました。有料は24時間では御座いません。AM08:00前はロープが張られてなく無料入場出来ます。予約が取れなくてどうしてもご覧になられたい方は08:00前の早朝入場はいかがでしようか。一旦入場すれば何時間でも居れます。もし出るときに入場券はと聞かれたら、スペイン語で<yo entrado antes de 08:00 horas>08:00前に入場しました。3月24日~10月26日はAM08:30オープン、10月27日~3月24日はAM08:30の予定です。注意:時間は突然変ることも御座います。   PICASSO美術館無料入場日 各月の第一日曜日は09:00~19:00まで終日無料です。また毎週日曜日の15:00以降も無料です。但し無料公開日はかなり混雑致します。     その他、グエル邸も毎週日曜日の夕方から無料公開になります。注意:時期により無料開始時間が変ります。   <EL PUNT D’oli>オリーブオイル専門店  このお店の経営者のJordiとConchitaはオリーブオイルのスペイン公認ソムリエ資格を持っています。その彼らが経営する<EL PUNT D’oli店>はサグラダ・ファミリアから50mのところにあります。ご希望の方はご自由に下記の割引券をプリントしてお持ちください。もしプリント出来ない場合はメールでご依頼ください。添付でお送り致します。これまでどなたも利用されていないので、もし利用される場合は何月何日お行になられるかをご連絡いただければ、事前にJordiかConchitaに連絡を入れておきます。その方が問題なくスムーズ行くと思います。      

おもしろ噺 ニューヨーク上陸

■このホームページをスペイン語ベースで作ったせいか、日本語文章の改行に不自然が発生することを冒頭でお詫び致します。   1980年の1月に日本を出てアフリカ(7ヶ月間)とイギリス(2週間)の放浪旅行をして、8月末にニューヨークにたどり着きました。ニューヨークではケニア(アフリカ)で知り合った佐藤さんを頼りに行きました。佐藤さんのアパートに到着してブザーを鳴らしても返答がありません。英語も出来ず、アメリカ文化も知らない私の心臓はドキドキ破裂しそう!、極度の不安から小と大を漏らす寸前。何とか冷静さを取り戻してケニアで伺った話を反芻しました。確か佐藤さんは<紅花レストラン>で板前をしてることを思い出しました。それなら帰りは22:00か23:00頃だろうと予想して、近くのレストランに入り何か食べて待つことにしました。しかしメニューを見てもさっぱり分からず、唯一分かったのが<HUNBRGER>でした。それを注文して延々と5時間くらい待ちました。しかしレストランは22:00閉店で無理やり追い出されました。何処かに座って待てば良いのですが、ホールドアップが怖い、不安の塊で何処にも行けません。22:15ころ再度アパートを訪れましたが返答なし、正に途方に暮れて30分くらい建物の前で待っていると佐藤さんが帰って来られました。この時は正に九死に一生を得た安堵感が込み上げてきました。 海外旅行をして発見したのは、何処に行っても日本人とドイツ人旅行者がいました。そんな訳でアフリカ放浪中に海外でのサバイバル情報が殆ど入手できました。例えばロンドン、ニューヨーク、ペルー、チリなどには日本人経営のペンションがあること。その他殆どの都市に日本人の溜まり場安宿があること。アフリカの7ヶ月間で持ち金を使い切ってしましました。日本出発前はお金が無くなったら日本に帰る予定でした。しかし折角、海外へ脱出、出来るものならアルバイトをしてもう少し旅行したい願望がございました。これが、そもそも人生の変換の始まりでした。アフリカで聞いたアルバイト情報はロンドン、ニューヨーク、スエーデン、イスラエルもしくは針金士(針金を使って自分でアクセサリ-を作る)。これらのアルバイトは労働許可書を持たない旅行者用のものです。よってロンドンとニューヨークは日本レストランくらいしかありません。ロンドンは皿洗いかキッチンヘルパー、曖昧な記憶ですがロンドンの皿洗いで一週間60ポンド、ウエイターで80ポンドくらいだったと思います。 そしてニューヨークの皿洗いが一週間150ドル、キッチンヘルパーが200ドル、ウエイターが500ドルとも聞きました。何も持たない不法労働で月に2.000ドルも稼げるなんて信じがたい金額です。この当時のレートは1ドル=240円でしたから、ウエイターをすれば月に48万円稼げることになります。最終的には、この夢のような話を掴みにニューヨークに行くことを決心しました。またこの頃は花の都パリからRICH&FAMOUSのニューヨークに流行の拠点が変遷しつつありました。私もチャンスあらばアメリカでお金持ち&有名になり<アメリカンドリーム>を掴みたいと言う情熱と希望が御座いました。この時は新天地に求める希望3割と恐怖心7割くらいでした。 佐藤さんのアパートが2ベッドルームでしたので、その内のワンルームを間借りすることになりました。ニューヨーク到着の翌日から仕事探しとベッド探しです。佐藤さんからベッドは通りに沢山捨ててあるから拾って来なさいと言われました。半信半疑で外に出ると、何と3ブロックに1個くらいは捨ててあります。状態の良さそうなのを持ち帰り部屋とベッドは準備完了です。さて次は仕事探しです。佐藤さんから日本書店とコーヒーショップが一緒になったお店を聞き出かけると、ここが日本人の溜まり場になっており、壁に沢山の求人広告が御座いました。その中からいくつかメモを取って、最初に入ったのが<きよこ>レストランでした。運よく1軒目で皿洗いのアルバイトが見つかりました。皿洗いは二人で相棒がメキシコの若き青年でした。私も彼も英語が出来ず片言のスペイン語で励ましあいながら働きました。給料は一週間150ドルだったような記憶があります。皿洗いは給料が安く大変な仕事でした。毎日沢山の皿を洗っていると手がふやけて皮がむけてボロボロ。皿洗いで4週間が過ぎたころキッチンヘルパーの秋山さんから、日本人は皿洗いはしない、最低でもキッチンヘルパーをすると言われました。と言われても包丁を持ったことも無し、料理経験はゼロです。それでも秋山さんの推薦でヘルパーのヘルパーにランクアップ出来ました。秋山さんから初歩的なネギの切り方、味噌汁の作り方、とんかつの作り方などの手ほどきを受けました。そんな生活の中でウエイターのHIYAMAさんからウエイターはチップが入るからもっと稼げると聞きました。夢にまで見た週給500ドルの生活です。キッチンヘルパーをする傍ら、時間が出来ればウエイター職を探して日本レストランを回って歩きました。やっと決まったのが<昼の亀八レストラン>と夜の<利休レストラン>です。面接の時は経験が無いのででたらめをならべました。仕事は決まったものの英語が出来ずウエイター経験もありません。これから生きるため、もう少し旅行をするためにやるしかありません。気持ちは<渡る世間に鬼はなし>。この時は本当に英語に苦労しました。それでも4ヶ月間頑張って6.000ドルを貯めました。そして、そのお金を持って1981年の1月に中南米の旅に旅たちました。収入はチップだけですから当時のウエイターはテーブル乞食とも言われました。 英語の苦労話をいくつか—! アメリカ人は食事の前に必ずカクテルを飲む習慣があり、これにを理解するのが大変です。例えばビーフィターマテイニ、VERY DRY、ストレイトアップ、ツイストetc。酢の物はどんなに酸っぱいですか?日本人ウエイターも殆ど俄か仕込み、そんな訳でフォークを下さいと言われたら聞き間違えてほうきと塵取りを持っていったり、日本人のお客様からおてもとと注文があればそのままキッチンに注文を通して皿に箸を乗せて運んだり。タバコはマルボロとLARKが通じないので、買えるのは<CAMEL>のみ。赤ワインのREDが通じないから何時もWHITE WINEのみ。 私が不法滞在の不法労働で無事に出国出来たことに御不審の方もいらっやると思います。アメリカは移民の国ですから入るときは非常に厳しいです。しかし出るときは一切チェックなし、出国を大歓迎します。上手く捕まらなければ20年あるいは25年不法滞在の方もおられました。但し街中や仕事先で移民官に捕まらない事!  

30/AUG/2015 No009 フィギュアスケートのチケット争奪戦

  フィギュアスケートファイナルチケット争奪戦   2015年も12月10日からフィギュアスケートファイナルがバルセロナで開催されます。TatsujinページにもVIP BOX席の依頼が参りました。軽い気持ちで購入を引き受けて、これまでの購入状況を覗いてみると冷や汗がタラタラ出てきそうです。世の中には沢山の熱狂的なスケートフアン(追っかけ)がいることに気づかされました。   争奪戦を物語るフエイスブック、ツイターの数々。2014年は7月12日に販売が開始されました。2015年7月12日前後からにわかに書き込みの鼻息が荒くなってきました。これは並々のアクセスでは購入できないだろう事を痛感させられました。フエイスブック、ツイターだけが発売予想日を煽り立てます。7月17日の時点で7月20日発売のアナウンスがされましたが、結局は発売されず。   いよいよ7月27日には、7月29日の12:00発売の再アナウンスがありました。当日知り合いに応援を頼み6台のPCでアクセストライをしました。ところが12:00の時点で工事中?そして12:05に1台がヒットしました。考える暇なし、一瞬の勝負です。12:07にVIP BOX席購入完了、発売から30分後には約3.000席がほぼ完売でした。VIP、ゴールド席は発売から5分で完売しました。   今年も羽生さん、浅田さん頑張って下さい。        

26/AUG/2015 No008 トマト祭り 2015

                                                                                                                                                                                        トマト祭り 2015年 (Bunol la Tomatina)          2015年もTatsujinはトマト祭りに行って参りました。日本人の方々は毎年増えて、今年は1.800人の来場者との新聞発表が御座いました。統計では一位スペイン人、二位インド人?、三位日本人でした。   トマト祭りも今年が60周年記念です。毎回受ける印象は祭りではなく正に<トマト戦争>です。このお祭りも5年くらい前から超フィーバーして約5万にくらいの人々がやってくるようになりました。それでは小さな会場(村)には全員入り切れなくなり、3年前より入場券(入場制限)の発売が始まりました。今は入場券があればトマトにも触れて十分楽しめます。トマト祭りに関するお問合せが御座いましたら、Barcelona Tatsujin HPのお問合せコーナーからお送りください。その時の写真を貼り付けでご紹介いたします。                                                                                                                                                                             

16/JUL/2015 No007 スタミナカクテル

  スタミナカクテル  暑い夏に負けない!   スペインのアンダルシア地方には伝統的な冷製スープ、ガスパチョ(Gazpacho)が御座います。野菜がたっぷり、飲むサラダとも言われています。このGazpachoとVodkaで作るカクテルが暑い夏に最高です。気分爽快で栄養満点。 (Tatsujinお勧め:必ず2~3滴タバスコを入れること) スペインではどこのスーパーマーケットでも売られており簡単に購入できます。日本でもし入手できない場合は、是非ご自身でおつくり下さい。  材料(一般的) トマト……1個半(300g) 青ピーマン……1個 赤ピーマン きゅうり……1/2本 たまねぎ……1/2個 にんにく……ご自由に 水……少量 セロリ……香りのお好きな方 <調味料> オリーブオイル……大さじ1杯 塩、胡椒少量 <作り方> トマト、きゅうり、ピーマン、玉ねぎは1cm角ぐらい、にんにくはみじん切りにします。ミキサーに(1)を入れて20秒ほどまわし、調味料を全部入れて、さらに20秒ほどまわします。味見をして、少しずつ塩やビネガーなどを足しながら味をととのえ、必要なら水を加えます。必ず冷蔵庫で冷やしてください。